7 /5 時刻は22時になろうとしていた。参夜が過ぎ去り、今日3度目の日の出を迎える。 それまで薄暈けていた世界は、その輪郭を思い出したかのように明瞭さを取り戻す。 私はこの時を待っていたと言わんばかりに勢いよく外へ出た。 部屋を出るとエレベータで階下へと降り、マンションを後にする。 目指すは繁華街。買っておくものは多々あるが、今はとりあえず食事でもしたいところだ。 しかしあまりのんびりともしていられない。今時分、日照時間が長めとはいえ油断しているとすぐに夜へと様変わりしてしまうからだ。 壱夜になる前に帰るべく、これからの予定を思案しながら歩みを進める。 だがその途中――――嫌なものを目にしてしまった。 決して見まいと心掛けていたにもかかわらず見てしまったその一角……。 そこはマンション前のただ通りである。 そう、そこは今はもう何の変哲もない通りでしかないのだ。いくら数日前に殺人が起こった場所とはいえ……。 だというのに私のこの反応、少し過剰過ぎやしないだろうか。いくら私が…………とはいえ。 「…………」 朝方の寒さのせいであろうか、軽い身震いに襲われる。 もう少し厚着をしてくればよかったかな、と思いながらその場を後にした。 ◆ ◆ ◆ 夜空を見上げながら物静かな道を一人歩く。 こうしていると星が自分で動いてるかのようにも見えてくるから不思議だ。 勿論そんなことはありっこない。自分が動いてるせいでそう錯覚しているに過ぎない。 しかし私はこの感覚が好きだ。そしてこの感覚を味わう度に一層夜が好きになれる。 だが夜の中でもやはり壱夜が最もよい。 世界が全ての喧騒を忘れるこの時間。誰にも邪魔されない私だけの時間。 それがあるからこそ私は壱夜を最も愛することができるのだ。 前にこのことを伽耶に話したことがあったが、散々笑われた挙句「神楽は可愛いね」などと馬鹿にされた。 自分の考えを押し付けるつもりはさらさらないが、何も笑うことはないだろうに。 空には星が瞬いているだけで雲1つなかった。夜でなければ星すらない、空っぽの空であろう。 いや、しかしそれも案外そうではないのかもしれない。 1つの意見に対しての評価など『賛成』か『反対』かの2つしかないのだ。 ならば、賛同が得られなかった時点で否定されているわけだ。笑われるのも仕方がないということなのか。 星の動きが止まった。正確には止まったのは私の動きか。 いやいやそうじゃない。それも違うだろ。 意見への評価は細分化すれば、『全賛成』、『部分賛成』、『全否定』、『部分否定』の4つがあるはずだ。 恐らく伽耶の評価は『部分否定』だったと思われる。 笑われたのは何かが変であったからであろうか? 「いやいやいやちょっと待て私、まだ違うだろ」 そうだ、まだおかしい。 部分的に否定っていうことは、部分的には賛成ということだろう。 ということは『部分賛成イコール部分否定』じゃないか。 伽耶は先の私の意見に対し、部分的に賛成し部分的に否定だったということか。 だがそれのなんて灰色、なんて半端、そしてなんて曖昧なことであろう。 そんなもの正と負の境界、ゼロのようなものではないか。 「…………」 ゼロ……何もなし。つまり価値がない、意味がないということか。 なるほど、よく判った。 あの笑いには意味がない。というよりも意味を求める概念を必要としないと言った方が近いか。 「ふふっ」 ああ、全く無駄なこと考えてしまったものだ。 自然と笑みが零れる。勿論この笑いにも意味を要さないのであろう。 星がまた、動き始めた……。 家に戻るともう6時を回っていた。 期限の壱夜はもう過ぎているが、蒼蒔のヤツがちゃんと約束通り終わらしているか見物だ。 まあ十中八九終わっていないだろうけどね。 いつも通りの暗い廊下の中、明かりを頼りに奥のリビングを目指す。 リビングには蒼蒔が居たが、予想に反して、いや、もはや予想通りと言うべきか、電気も点けっぱなしで机に突っ伏していやがった。 ここを一体誰の家だと思っているのだこいつは。 「ちょっと、起きなさいよあんた」 「ん……んん……」 「起きろアホ。あんたは寝てる場合じゃないでしょうが」 蒼蒔の背中を軽く小突く。 「んん、ふああ。ええっと神楽か? 今は寝かせてくれよ」 「寝惚けついでにふざけたこと言ってんじゃないわよ。まだ調査終わらせてないでしょあんた」 「ああ、それならついさっきようやく終わったよ。だから寝かせてくれって言ってるんじゃないか。もう眠くて眠くて」 「はぁあ? え、ちょっと、それ本当に? この場しのぎの嘘だったら後で八つ裂きにするわよ?」 「八つ裂きは勘弁だけど本当だよ。神楽の期待に応えようと俺頑張ったんだからさ」 「吐かしてんじゃないわよ。『期待に応えようとした』だ? こちとら終わらせてるとは思ってなかったんだから思いっきり期待を裏切ってるってのよ!」 「ちょ、ちょっと待ってくれよ。こっちはちゃんと仕事をこなしたのになんで俺怒られてるわけ?」 「なんでってそりゃ…………あ、あんたが気に入らないからよ」 「ああ、そういうことにしておこうか」 「なんかムカつくわねその態度」 「はいはい、それじゃあ馬鹿話もこのへんにして本題に入るとしますよ」 「それはいいんだけど、あんた寝なくていいの?」 「今更だな。神楽のおかげで眠気も吹き飛んだよ」 「あっそ……」 蒼蒔は机に脇に置いてあったファイルを手に取り、それを開く。 おそらくあのファイルの中に纏めてあるのだろう。 「神楽の依頼はあの3件目の事件の目撃者が住んでいるマンションの2階以上の住人を調べてくれってものだったよね」 「丸っきり検討違いかもしれないけど犯人もそこに住んでるんじゃないかと思ってね」 「調べ終わって今更聞くのもなんだけど、そう思った理由は?」 「現場を見た私の勘よ。何か悪いかしら?」 「別に、それこそ今更驚きもしないよ。神楽ってば考えてるようで割りと思いつきで行動すること多いしね」 「いちいちうるさい。いいからさっさと調査結果を寄越しなさいよ」 「そう焦りなさるなって。ほら、部屋の名義から住人の家族構成、その職業までこのファイルに纏めておいたからさ」 蒼蒔からファイルを受け取り、目を通す。 【201号室】近藤雅之、育子。清掃業、主婦。【202号室】今江孝司。フリーター。 【203号室】有朋一寿、芳美、鷹雄。タクシー運転手、主婦、学生。 …………。 「あんた本当にこれを一晩で調べたの? 我人の手伝いなんか止めて探偵にでもなったらどうなのよ?」 「幸い色々とネットワークが繋がってるからね。探偵業は考えなくはないけど…………まあ今はここで働くほうが楽しいからさ」 「あっそ……」 私にとっては正直どうでもいい些末事に過ぎないので軽く流し、ファイルの続きに目を通す。 …………。 【401号室】益宮恭。自営業。【402号室】吾川杜氏。教師。 【403号室】空き部屋。【404号室】北妙桐枝。学生。 …………。 「ちょっと、404号室のこの北妙ってまさかあいつじゃないでしょうね?」 忌々しい顔が頭に浮かぶ。あの憎っくき演劇部の部長様の顔がである。 「あいつってのが誰なのか判らないけど、北妙なんて珍しい名字滅多に居ないからそうなんじゃないかな」 「あいつったら、学生のくせにこんなとこに住んでるなんて……」 「別に珍しいことでもないみたいだよ。そのマンション、他にも学生住んでるみたいだしさ。確か、三階と五階にも、鴨下とか水内っていう学生の人が居るでしょ?」 「どいつもこいつも贅沢だこと」 ファイルを閉じて、その辺に放り投げる。 どうせこの部屋を使うのは蒼蒔くらいなものなのだ。散らかろうが私には一向に関係ない。 「あっと。人がせっかく頑張って調べたのに何するんだよ」 「用件も済んだしもう寝るわ」 「お礼の言葉もなしですか……」 「何か言ったかしら?」 「いぃえ。何も」 「あら、そう」 よく聞こえなかったが、目を逸らしながら言うからにはおそらく何か言ったのであろう。 しかしそれを素直に言わないあたり、蒼蒔である。随分と失礼なヤツだ。 「それじゃあ私はもう寝るわね。あんたもこんなところで寝ないでさっさと家に帰りなさいよ?」 そう言ってリビングを出る。 ……が、寸前で忘れ物に気付いた。 「あぁ、そうそう。言い忘れてたけど、調査ご苦労様。意外と助かったわ」 |
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